映画『ぼくのお日さま』を観て
吃音に関する映画と聞いていたが、終わってみれば恋愛映画だったという印象を受ける。吃音は物語の端っこにあっただけだった。
吃音についてはかなり気を遣って描いていると感じた。音読の授業中、先生の「ゆっくりでいいからな」という言葉や吃っても特に指摘しないクラスメイトなど、自分もこんな環境で幼少期を過ごしたかったなあと思う。同時に、ここまで良い環境はないよなあとも思った。交流会などで吃音のある中高生と話をすることがあるが、本当に大変な環境で過ごしている子が多い。『ぼくのお日さま』での描写は吃音者にとって理想的な環境ではあるが、吃音のリアルではない。
自身の経験から幼い頃の環境はとても大切だと感じている。吃ることに対する周囲の指摘やからかいは本人が吃音を悪だと捉えることにつながりかねず、改善の難しい吃音に対してそう思ってしまうと今後の人生に絶望してしまう。それに対し吃音のある主人公はかなりのびのびと過ごしている印象だった。特に自身の吃音に対して本人が向き合う場面がない。個人的には、言葉につまるという症状が同じでも、本人がそれを「吃音」だと意識しているかしていないかで、本当の意味で「吃音者」であるか否かが変わってくると思っている。その上では主人公が吃音者であることすら危うい。また、吃るとはいっても言いたいことが言えないほどではなかった。むしろ吃ることが本人の初々しさを助長していて、恋愛映画という面ではプラスに働いている。悪く言えば物語を立てるのに吃音が雑に利用されてしまった。しかし、吃ることが萌え要素になりうるということは自分にとって新たな発見だった。
ここまで書いてから、吃音に対する批評をここで終わらせるのは浅はかではないかと恥じた。余白の多い映画であるゆえ、まだ十分に考察の余地は残されている。主人公は確かに吃音症があるが、その点で周りからほとんど指摘されず、普通の一人の人間として描かれている。普通の人と同じように周囲の人間と意思疎通を図り、恋愛をしている。ここから、吃音があっても他人はそこまで意識していないし、みんなと同じ一人の人間として堂々と生きて良いんだよ、というメッセージを密かに感じた。実際、こうして捉えることで自分が日々思い悩んでいた悩みからかなり解放されたように思う。
中盤にかけて二人のアイスダンスが始まりほのぼのとした時が流れていた中、コーチがゲイであることがほのめかされる。ここで吃音はテーマの一つにすぎなかったのだと確信した。世の中には様々な事情を持った人間が共存しているということを暗に訴えているのだろうか。
本作のエンディングでは、ハンバート ハンバートの曲『ぼくのお日さま』が流れる。これはがっつりと吃音に言及された曲であり、吃音をテーマにした映画でしたと言わんばかりの選曲である。正直途中のコーチの件がノイズとなり、テーマとしての吃音はだいぶ薄れたように感じたので、ここではかなり違和感があった。タイトルにもこの曲名が付けられているように、あくまでも「吃音」がテーマの映画なのである。しかしどれだけ譲歩しても、やはり作中で吃音への言及はかなり少なく、作者の意図するものを感じ取ることは難しかった。
全体を通した撮影手法、自然、風景の描き方からはエモさが感じられ、また幼い二人のほのかな恋愛というテーマも観ていて微笑ましくなるような癒される作品だった。
( 大学2年 Y )
2024年10月5日、シネ・リーブル池袋にて、映画『ぼくのお日さま』を鑑賞しました。
以下、本作品のテーマの一つである「吃音」にフォーカスして当事者からみた感想を書きます。
本記事はネタバレを含みます。
映画『ぼくのお日さま』
監督・脚本:奥山大史
2024年9月13日全国公開
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吃音に関する映画と聞いていたが、終わってみれば恋愛映画だったという印象を受ける。吃音は物語の端っこにあっただけだった。
吃音についてはかなり気を遣って描いていると感じた。音読の授業中、先生の「ゆっくりでいいからな」という言葉や吃っても特に指摘しないクラスメイトなど、自分もこんな環境で幼少期を過ごしたかったなあと思う。同時に、ここまで良い環境はないよなあとも思った。交流会などで吃音のある中高生と話をすることがあるが、本当に大変な環境で過ごしている子が多い。『ぼくのお日さま』での描写は吃音者にとって理想的な環境ではあるが、吃音のリアルではない。
自身の経験から幼い頃の環境はとても大切だと感じている。吃ることに対する周囲の指摘やからかいは本人が吃音を悪だと捉えることにつながりかねず、改善の難しい吃音に対してそう思ってしまうと今後の人生に絶望してしまう。それに対し吃音のある主人公はかなりのびのびと過ごしている印象だった。特に自身の吃音に対して本人が向き合う場面がない。個人的には、言葉につまるという症状が同じでも、本人がそれを「吃音」だと意識しているかしていないかで、本当の意味で「吃音者」であるか否かが変わってくると思っている。その上では主人公が吃音者であることすら危うい。また、吃るとはいっても言いたいことが言えないほどではなかった。むしろ吃ることが本人の初々しさを助長していて、恋愛映画という面ではプラスに働いている。悪く言えば物語を立てるのに吃音が雑に利用されてしまった。しかし、吃ることが萌え要素になりうるということは自分にとって新たな発見だった。
ここまで書いてから、吃音に対する批評をここで終わらせるのは浅はかではないかと恥じた。余白の多い映画であるゆえ、まだ十分に考察の余地は残されている。主人公は確かに吃音症があるが、その点で周りからほとんど指摘されず、普通の一人の人間として描かれている。普通の人と同じように周囲の人間と意思疎通を図り、恋愛をしている。ここから、吃音があっても他人はそこまで意識していないし、みんなと同じ一人の人間として堂々と生きて良いんだよ、というメッセージを密かに感じた。実際、こうして捉えることで自分が日々思い悩んでいた悩みからかなり解放されたように思う。
中盤にかけて二人のアイスダンスが始まりほのぼのとした時が流れていた中、コーチがゲイであることがほのめかされる。ここで吃音はテーマの一つにすぎなかったのだと確信した。世の中には様々な事情を持った人間が共存しているということを暗に訴えているのだろうか。
本作のエンディングでは、ハンバート ハンバートの曲『ぼくのお日さま』が流れる。これはがっつりと吃音に言及された曲であり、吃音をテーマにした映画でしたと言わんばかりの選曲である。正直途中のコーチの件がノイズとなり、テーマとしての吃音はだいぶ薄れたように感じたので、ここではかなり違和感があった。タイトルにもこの曲名が付けられているように、あくまでも「吃音」がテーマの映画なのである。しかしどれだけ譲歩しても、やはり作中で吃音への言及はかなり少なく、作者の意図するものを感じ取ることは難しかった。
全体を通した撮影手法、自然、風景の描き方からはエモさが感じられ、また幼い二人のほのかな恋愛というテーマも観ていて微笑ましくなるような癒される作品だった。
( 大学2年 Y )