いんこです。
3月26日(土)に行われました第2回吃音モデル研究会の報告文を掲載いたします。なお、以下の報告文は、当日に使用された電子ホワイトボードのメモをもとに、いんこが作成し、参加者の了承を得て、公開しているものです。
(第2回吃音モデル研究会・活動報告文)
文・いんこ
3月26日(土)、東大本郷キャンパス学生支援センターディスカッションルーム1にて、第2回吃音モデル研究会を開催したしました。今回の参加者は2名(学内生。いんこ及びAさん)でした。
今回も、東大誰でも当事者研究会代表のべとりんさんから使用許可をいただいたレジュメを参考に会を運営しました。べとりんさん、ありがとうございました。
15分ほどの、雑談、自己紹介のあと、べとりんさんのレジュメと私の作成した資料(『話し言葉の地図』)を参考に、会の運営方針や注意事項を説明した後、電子黒板を使ってモデル研究会を行いました。参加者が二名だったので、いんこはファシリテーターをしながら、自分も参加者として発言しました。
モデル『話し言葉の地図』についての紹介
今回は、劇作家・平田オリザさんが提唱される『話し言葉の地図』をモデルに、モデル研究会を行いました。『話し言葉の地図』とは、平田オリザさんが、話し言葉の種類を、『意識』という観点から、いくつかの種類によって分類したものです。
演劇は、人間の話す様々な種類の言葉によって成り立っている。
「話し言葉」に、そんなに様々な種類があるかと訝る方もいらっしゃるだろうが、いやいや、私たちは、生活のあらゆる場面で、意外なほど多種多様な言葉を駆使して、人生の時間を少しずつ前へ進めている。
井上ひさし氏は、「話し言葉」を、文法諸規則からの距離という視点で、「講演」「談話」「会議での会話」「やや堅苦しい日常会話」「くだけた日常会話」「非常時や感動を表す日常会話」というように分類している(『話しことば大百科』)。それを真似して、「意識」という視点で私なりに「話し言葉」を分類してみたのが、別表「話し言葉の地図」である。この表では、右に行くほど意識的に話している、ということはあらかじめ話すことがきまっていることになる。
もう少しだけ解説を加えよう。たとえば演説というのは、「政治家」なんかがよく行うもので、たいてい喋るひとは「単」数である。一方聞く側は「不特定多数」であり、しかも話者にとってはまったく自分のことを知らない存在「他人」であり、また話を聞く意思も初めはあまり「無い」ことが多い。演説が行われる場所は「広場」などが多く、最初の言葉は、「紳士淑女諸君」「お集りの皆さん」といったところだろうか。ひとりが連続して喋る時間は往々にして「長く」、それが成功した場合は結果として「熱狂」が得られる。と、まぁ、こういった具合だ。
(平田オリザ『対話のレッスン』、講談社学術文庫(2015)pp.13-19『話し言葉の地図』より)
このモデルを研究したいと思った動機
今回このモデルを吃音のモデル研究会に取り上げた理由は、第一に、私(いんこ)がこの表を最初に見た際に、「吃音症状が出やすい状況」と「出にくい状況」とが、『話し言葉の種類』に対応していそうで、面白いと思ったからでした。例えば、いんこは、『独り言』を言う際には、これまで一度も吃音症状が出たことはありません。一方で、研究室などでプレゼン発表(おろらく『演説』)する際は、とても難発の吃音が出やすくなります。また、普段の『会話』では、吃音は出たりでなかったりしますが、当事者研究会のような『対話』をする際には、これまであまり吃音症状がでたことはありませんでした。
だから、私(いんこ)にとっては、「必ずしも『意識的』な話し言葉であるほど吃音症状が出やすい」というわけではありません。しかし、それでも、吃音症状の出やすさと、話し言葉の種類とは何かしら関連性がありそうで、研究してみるとおもしろそうだと思ったのです。
また、平田さんの分類では、9種類に話し言葉を分類しています(井上ひさしさんは6種類ですが)が、吃音者たちがこのモデルをもとに当事者研究をすることで、また違った『話し言葉の地図』が描けるのではないか、とも思いました。「ブラッシュアップがしやすそう」という点から、モデル研究会の材料として、最適だと思ったのです。
以上のような『モデルについての紹介』と『このモデルを研究してみたいと思った動機』を私(いんこ)が説明した後、モデル研究会がスタートしました。
「吃音が出やすい話し言葉」について
Aさんによる体験談・独り言…基本的にはあまり吃らないが、独り言でも吃ることも経験している。
・演説(プレゼン)…練習して、「機械を再生するようにしゃべる」ようになると、吃音の頻度は低下する。
・電話や受付…おなじく、決まりきった対応で「機械を再生するようにしゃべる」と、吃音の頻度は低下する。ただし、「挨拶」の時は吃音頻度は高い。電話の内容を「挨拶」と「内容(用件)」にわけるのなら、「挨拶」の時は吃音頻度は高いが、「内容」の時に、「機械を再生するように喋る」ことで、吃音症状が低下する。
・会話、対話…相手、場所(飲み会、喫茶店、食堂など)、内容、状況などによる。 例)飲み会⇒その場のノリや酒の勢いによってしゃべる(「勢いにのる」)と出にくい。
・急にふられると、話し言葉の種類にかかわらず、吃音症状の頻度は上がる。
⇒必ずしも、「吃音症状の出やすさ」が「話し言葉の種類」に対応しているわけではない。「どういう時に吃るのか」は、基本的に「わからない」。つまり、「なる時には、なる。ならない時には、ならない」。「話し言葉の種類」以外にも、状況や、「急にふられたかどうか」などによって、変わる。
いんこによる体験談
・独り言…これまで一度も吃ったことがない。
・演説(プレゼン)…吃りやすい。(~70%?)
・会話…吃音症状が出る場合もある(状況や相手などによる)。
・対話…これまではあまり吃音が出たことがない(当事者研究会において)。
⇒「話し言葉の種類」と「吃音症状の出やすさ」は対応しているものの、必ずしも「意識的な話し言葉」ほど「吃音症状が出やすい」というわけではない。また、Aさんの「独り言でもどもる」という体験は、いんこにはない体験だったので、面白いと思った。いんこの場合、「機械的にしゃべる練習」によって吃音症状が軽減することもあるが、逆にむしろ高くなってしまうこともあるので(諸刃の剣)、そのため、必ずしも「吃音症状が低下する」というわけではない。(Aさんも共感)
まとめ
「吃音症状の出やすさ」は、「話し言葉の種類」のほかに、「状況」、「勢い(ex.酒)」、「機械的なしゃべり方」、「急かどうか」、また「口調(大きい声か小さい声か、話し方)」などにも関係がありそうです。
方言による「吃音症状の出やすさ」
「口調」についての話がでたので、「話し言葉の種類」から、「言語の種類(方言か標準語か)」と吃音症状との関係についての話に移りました。Aさんの体験談
基本的には標準語でしゃべる時も方言でしゃべる時も、変わらないように感じる。ただし、無感情でしゃべるときは、吃音の頻度が低下し、初対面だと吃音の頻度が高くなるという傾向があるように思う。無感情に喋ったりする場合は標準語になりやすく、感情がこもると方言が出やすいという傾向はあるかもしれないが、その時にたまたま標準語で話していたか方言で話していたか、と言うだけであり、「標準語(方言)でしゃべるから吃音症状が出やすい(出にくい)」ということはない。
いんこの体験談
いんこは関東出身なので、方言と標準語がほとんど変わらないため、「方言―標準語」という話し言葉の種類の変化と自分の吃音症状についての体験談は話せませんでした。
関係性による「吃音症状の出やすさ」
いんこの体験談大学3年生の頃、新しいメンバーを迎えて本郷キャンパスでサークルを発足させたとき、そのメンバーの方が嫌いな訳ではなかった(むしろ仲良くなりたかった)のだが、その人としゃべるときに難発がひどくなり、他のメンバーとしゃべる時はスラスラしゃべれるということがあった。なので、とても気まずかった。その人は明らかにいんこの吃音を受け入れてくれていたのだが、まるで「打ち解けられなさ」が如実に表れてしまったようで、しばらくの間、そのメンバーの方と話すとき、申し訳ないような気持ちをずっと抱えていた。しかし、数か月間経つうちに、その人としゃべる時も、打ち解けて喋れるようになり、吃音頻度も低下していった。 ⇒毎回ではないが、「会話」においては、初対面では吃音頻度が高くなり、時間が経ち、その人との関係性が深くなると低下するという傾向がある。会話における吃音症状については、相手との関係性が非常に影響を与えている気がする。
Aさんの体験談・感想
自分にも、初対面では吃音頻度が上がり、関係が深まっていくと全体的に低下していったという体験がある。おそらく、「会話」や「対話」では、状況や人間関係(コミュニティー、仕事、サークル)など、具体的な関係性が非常に吃音に影響を与えやすいが、プレゼンや(「演説」)の場合、相手が不特定多数なので、そういった「人間関係」が吃音に影響を与えないように感じた。
外国語を話すときと吃音
いんこが「独り言でも吃音が出ることがある」というAさんの体験に興味を持ったので、それについてAさんに尋ねてみました。Aさんの体験談
自分は、NHKラジオの英語講座でシャドーイングの練習をするとき、独り言なのに、吃音症状が出たという経験を持っている。それ以外でも、あったような気もするが、すぐには思いつかない。
いんこの体験談
いんこは独り言で吃ったという経験はおそらく皆無だが、Aさんの「英語の練習をしたとき」という体験談にものすごく共感した。いんこは英語を話すときにとても吃音症状がでる。所属している学科や研究室が、「グローバルコミュニケーション教育」の一環として、英語教育に力を入れているため、プレゼンや研究室の公用語でも英語が使われていた。文章は浮かんでいるのに、難発症状がひどく、さらに言い換えもできないため、スラスラと言うことができず、とてもつらかった。「英語+会話」/「英語+プレゼン」というのが、吃音症状の出やすさのコンボ条件になってしまっているため、自分が所属している学科は、自分にとってとても居心地が悪かった。
Aさんの体験談
いんこの学科が非常に英語教育に力をいれている話はよく耳にする。学部生の授業がすべて英語で行われるなど、日本語でさえ理解するのに時間がかかる内容を英語で教わらなければならないので、所属している同級生が先日、悲鳴を上げていた。
自分の学科でも、最近英語教育に力を入れ始めたが、いんこの学科ほどではない。教授たちも、「英語は最低限でよく、雑談力などはつけなくてよい。相手の国の人とケンカや議論ができるだけで十分だ。それよりも、学問の内容をきちんと理解し、学力を身に着けることが大切だ」という方針(構成的体制)でいる。自分の学科では、仮に英語がペラペラだったとしても、学問をきちんと理解していない学生は、むしろ馬鹿にされる。
一方で、学科の外では東大生(日本人)特有のプライドやコンプレックスなのかもしれないが、「英語ができないやつ=だめなやつ」という眼差しを感じる事もある。意図してか意図せずしてか「私は英語を話せますよ」アピールをする学生や、それに萎縮してしまう自分への英語コンプレックスを感じた
学科の英語コミュニケーションの授業では、先生に初回に吃音であることを伝え、配慮をしていただいた。機械的に読み上げる練習や、先生との単発の短い応答で進行していく授業だったので、自分にとってはとてもよかった。発音も直してもらい、英語の力もかなりついた。
派遣プログラムで、フランスに行った時、英語と日本語を使いながらコミュニケーションを取った。自分も英語をしゃべる時は日本語よりも吃りやすくなってしまうため、フランス人の友人は気を遣ってくれて日本語で話してくれた。しかし、日本語で話されるとこちらもあらたまってしまい、吃り、結局相手のフランス人も聞き取れない、という悪循環が起きてしまった。
一方、ペルーに旅行した時は、簡単なスペイン語の挨拶だけを覚えてほとんど英語でコミュニケーションをとっていた。しかし、フランスで英語を使ってコミュニケーションを取った時よりも、とても話しやすかった。向こうも英語を第一言語としないため、お互い使い慣れない英語同士での会話だったためなのかもしれない。 このように、自分の中で比べて見たときに、英語、スペイン語、中国語の中だと、英語を話すときが一番どもりやすく、スペイン語や中国語はどもりにくい。
これは、第一に、「言葉そのものの話しやすさ」の問題があるような気がする。英語には日本語にはない発音が多い。一方、スペイン語は巻き舌以外、ほとんど日本語に近い音が使われている。中国語は、子音がきれいなので、とても話しやすい(Aさんは「私は中国が喋れません」という中国語を機械的に再生できるように例文として覚えている)。
また、英語を話すときにどもりやすいのは、「言葉に対する意識」という問題が含まれている気がする。つまり、日本人は義務教育で皆英語を勉強しているため、「英語が下手である」ということに何となくコンプレックスを抱いてしまい、他人の「きれいに私は英語が話せますアピール」に委縮してしまいがちだ。一方、日本人が英語以外の第2外国語を話すときには、全員が勉強している言語ではないので、多少発音や文法がつたなくても、それほど他人に引け目を感じることがない。だから、話しやすいのかもしれない。また、英語と違い、日本で第二外国語を話す機会が少ないというのも、「話しやすさ」に作用しているような気もする。
また、「国民性の違い」という問題も存在するような気がした。フランスに滞在していた時に、英語がどもりやすかったのは、気遣ってくれるフランス人に対する気後れが原因だった気がする。フランス人は日本人に似て相手を言葉すくなにお互いを気遣う文化がある。そのような「気遣い」によって自分は逆に吃りやすくなってしまった気がする。ペルーで英語を使ってコミュニケーションを取った際は、ラテン系の明るい人たちだったので、つたない英語でもとても話しやすかった。
このように、自分にとっての「吃りやすさ」(話しにくさ)には、単純に「母語か非母語か」という問題よりも、「言葉そのものの話しやすさ」や「国民性」や「言葉に対する潜在的な意識」などが反映しているように思われる。
また、英語についても、もしかしたらアメリカに長い期間生活し始めたら吃らなくなるのではないか。日本語くらいの吃音になるのではないか、という予想がある。外国人かどうかに限らず、初めて人に話しかけるときは緊張するものだが、自分の場合、壁を超えると話せるようになる。最初は吃っても、言い終わると楽になるのだ。 また、個人的な興味として、帰国子女でバイリンガルの吃音の当事者がいたら、言語の種類によって吃音の症状が変わるものなのかどうか、話を聞いてみたい気分だ。
いんこの感想
いんこは今まで、「英語を話すときに吃音症状が出やすいのは、母語ではないからだ」と勝手に思い込んでいたが、Aさんの体験を聞いて、「母語か非母語か」以外にも、「言語そのものの話しやすさ(日本語との発音の近さ)」、「国民性」、「言語に対する人々の意識」などもが、吃音の出やすさに作用していることに気が付き、衝撃を受けた。
また、Aさんの、吃りながらも、海外に留学し、コミュニケーションをとっていく体験談に、とても勇気づけられた。いままで、吃音がひどくなってしまうため、特に、今の学科に進学してからは、英語でコミュニケーションをとることに本当に苦手意識を感じていた。だから、発音など英語力をせっかく鍛えたものの、「しゃべれないから留学など絶対に自分には無理だ」と思い込んでいた節があった。Aさんの話を聞いて、「留学してみたい!」と初めて、素直に、思えるようになった。
吃音の周囲へのカミングアウトについて
次に、「学科の英語の授業の時、担当教官に吃音について配慮を求めるように依頼した」という体験談から、「吃音のカミングアウト」についての話題になりました。Aさんの体験談
中学・高校時代は、新学年になるごとに先生に吃音について話し、自己紹介でも、クラスの全員に話していた。人間関係が選択できないので、クラスの全員に説明していた。
一方、大学に入ってからは、東大生は変な人が多いので、仲のいい友達などは除き、あまり周囲に話さなくても助かる環境であると思う。また、大学では、人間関係が選択できる。吃音についてからかったり、引いたりする人とは付き合わなくていい。だから、環境としては、中学・高校時代よりも楽になった。
また、大学入学後、自分の場合、語学の授業や、学科に進学した際の面接で、支援室や教授たちに相談してきた。支援室の方々は語学の担当教官に対応などをしてくれて大いに助かった。学科の教官たちは、もともとコミュニケーション力よりも、内容を理解することやきちんと勉強することを評価してくれるという考え方なので、今の学科は、基本的に、特に特別な配慮などが必要のない環境である。
自分の場合、吃音とどう付き合うかは個人の自由だと思うので、「治す努力の否定」という自助グループの活動には少し違和感を考える。ただし、個人としては、発声練習などにより吃音を治す気持ちはない。そのため、「吃音者である」と情報公開をして、周囲の環境に働きかけ、自分が生活しやすいように、積極的にカミングアウトしてきた。それでも、電話の際に吃音が出てしまい、相手に怒られてしまうなどのこともあったが、基本的に問題なくこれまで過ごせている。
ただし、これから控えている就職活動の際には、どうするか考え中である。大学では、支援室などを通して理解を求めていたが、就職の際には、吃音に理解があるかどうかは会社の方針によるのだろう。場合によっては吃音を理由に不採用にする会社もあるかもしれない。
いんこの体験談
自分は、吃音についてカミングアウトするようになったのはここ数年で、Aさんのように中学生時代から積極的に周囲に理解を求めるように話したことはあまりなかった。また、「吃音なのです」とカミングアウトしても、「そうなんだ」だけで話が終わってしまい、「どうしてほしいのか」を今まであまりうまく伝えることができなかった。Aさんの体験談を聞き、きちんと周囲に説明していく大切さを改めて認識した。
吃音観と吃音の自助活動についての対話
『自分自身は治したいと思っているわけでもないし、治す努力をしているわけではないが、「治す努力の否定」という考え方には少し違和感を覚える』、というAさんの体験談(いんこも共感)から、吃音観についての話題に移りました。Aさんの体験談
ネット上のとあるブログで、『途中で治った、または、普通に生活している吃音者はニセモノの吃音者であり、治らない吃音者が本物の吃音者だ』という主張を読んだことがある。これは、自分としてはおかしいな、という気がした。
一方で、『吃音は努力で治る』といった論も見受けることがある。それも自分としては違うのではないかと思う。
いずれにしても、このように、同じ当事者であるにも関わらず、主にネットを中心に、吃音者同士が吃音観をめぐって対立している状況が、自分はとても面白いと思っている。 ほかの障害、例えば、ろう者の世界ならば、コミュニティーがちゃんと確立しているし、規模も大きい。また、独立した文化圏も確立されているように見える。たとえば、手話サークルに自分が参加したときに、みな手話でコミュニケーションを取り、参加した自分だけが手話ができず、孤立してしまったことがあった。このように、ろう者の世界は非常に独特な世界を形成してる。人数が多いし、ろう者のための大学までもある。
自分はあまり、吃音者のコミュニティに所属したことがないのだが、外から見た印象では、吃音の世界は、『治す努力の否定』派、『治したい』派、などの派閥があるし、人が少なく、ばらけている印象だ。
いんこの体験談
自分も、ろう者たちは吃音者よりもはるかに独特な文化圏を持っている、と聞いたことがある。ただ、ろう者の世界でも、障害観を巡って対立があるという話も文献で読んだ。『バリアフリー・コンフリクト』(東京大学出版会)という本を読んだ際、ろう者のコミュニティーでは、聴覚口話法と手話法とが大きく対立したり、また人工内耳の導入を巡っても、決して一枚岩ではないらしい。おそらく、障害観をめぐる対立は、多かれ少なかれ、どの障害者のコミュニティーでも、起きているような気がする。
Aさんの体験談
実は、自分も、大学入学時に、いんこのように吃音サークルを作ろうと思ったことがあった。しかし、自分の回りで吃音者が見つからず、あきらめた。
一般的には、『吃音の有症者は、国や地域を問わず人口の1%』と言われているが、自分の印象では、そんなに吃音者はいない気がする。「もしかしたら吃音者なのかな?」と思われる人はいるのだが、「吃音だ」と本人はカミングアウトしていないため、「この人はアスペルガー症候群などの違う障害なのか、それとも気が付いていないのか、もしくは隠しているのか」と思ってしまう。「隠れ吃音者」が、多いのではないか。
いんこの体験談
このサークルを立ち上げたのは、学外の吃音コミュニティーのSNSで「サークルを作りたい」と宣言したところ、たまたまそのコミュニティーに所属していた東大生の仲間が集まってくれたためだ。だから、大学内で募集して見つけたたわけではない。もし最初から、学内で吃音者を探してサークルを作ろうと思っていたら自分もあきらめていた気がする。
また、自分は大学3年生のころ、とある学外の吃音者の集まりに参加した際、「自分が吃音であることを今日まで知らなかった」という当事者に出会ったことがある。その人は、「世界中でこの奇妙な症状に悩まされているのは自分だけだ」とずっと思い続けて成長し、ある日ネットで検索したところ、どうもこれは吃音症というものだということに気が付いたらしい。また、「今日、同じ当事者の集まりに参加して、自分が吃音であることをやっと確信した」とも語っていた。そういう当事者も、あるいは多いのかもしれない。
国内の吃音者の最大のコミュニティーは『言友会』という組織だが、そこの会員数は1000名程度だ。つまり、単純計算すると、吃音者の全人口の0.1%ほどしか所属していないということになる。だから、『吃音者』として周囲にカミングアウトしたり、仲間と一緒に考えたりしている当事者は、おそらくかなり少ない気がする。
Aさんの感想
今のいんこの話は吃音の大きなジレンマなのではないかと思った。つまり、多くの吃音者は、孤立しており、周囲に言葉を発していない。「吃音だと認めたくない」というような人は発言しないだろう。おそらくそういう当事者の方は一定数居る。いや、むしろ多数派なのかもしれない。そして、そのような当事者たちが一番大変なのではないか。
臨床研究に協力したり病院を受診したりする吃音者から得られるデータや、吃音者の自助団体である言友会や大阪吃音教室から発信される情報は、実は大多数の当事者たちの現状について反映されていない可能性がある。
自分は大学入学時、一か月に一回程度、お菓子とジュースでも飲みながら、吃音者の学生が集まるようなサークルがあればいいな、と思っていた。普段はただ話し合うだけで、問題が起こったら、仲間と相談し合う、というような。そんな「ぬるいサークル」のサークルの存在を夢見ていたが。いんこはどのような目的や方針でこのサークルを立ち上げたのか?
いんこの答え
色々なきっかけがあったが、本格的に吃音について考えたいと思ったのは自分の場合、この1年~2年くらいだ。それまでにも何度も吃音について考えたいと思っていたが、ここにきて、吃音について本当にちゃんと考え、自分自身の言葉を確立したいと思った。
まだ数回しか活動をしていないが、今のところ、うちのサークルは、今日のような当事者研究をメインに活動しようと思っている。特定の吃音観などに縛られず、参加者一人一人が自分の問題に向き合えるようなサークルにしたい。とりたてて社会運動のようなものを目指しているわけではない。
参加者は2名でしたが、色々な内容について話せて、とても面白かったです。参加者のAさん、ありがとうございました。
次回の活動は、4月を予定しております。日程が決まり次第、活動ブログなどでご報告させていただきます。よろしくお願いいたします。